2013-02-27

・スピンオフ鷹の目田嶋陽子事件(後半)


前回を一言でまとめると,田嶋陽子応援HPを作ったけど、途中で気持ちが折れたという告白でした。そのワケは? 始まり始まり~

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はっきり申し上げて,私は,反響のなさに挫けたのです。ええ,はっきり言いましょう,もう少し何かほめてもらえると思い込んでいたのです。なかなかいいものが書けた,歌にからめながら田嶋さんの本をそれとなく紹介したりして,これけっこう秀逸なアイデアちゃう?と息巻いていたのです。それが,

ふたを開けてみれば,
2,3の「なかなか評判いいです」的なコメントは聞こえてきたりはしましたが,ガックシ。私が当初期待していたところの,「えーー田嶋さんってこんな人だったの!絶対会ってみたくなっちゃった!」であるとか,「気がついたら田嶋さんの本,アマゾンでいっぱい注文しちゃいました。えへ。」であるとか,「歌と解説いいですね,これはぜひ生でみなくちゃって,主人と盛り上がっているんですよ」みたいな報がぞくぞくと入ってくる,そんな夢想をしていたりもしたのでした。そして,このサイトのURLをさりげなくも何度となくフェイスブックなどに投下したのですが,果たして結果は,ほぼなしのつぶてといっていい状況が待っていただけだったのです。

なしのつぶてとはこういうことを言うのか。。私はあたらめて日本語に目覚めるとともに,本当にある意味落胆しました。妙な自信が過剰であった。。そのことをまざまざと見せつけれられた思いがしたのです。ああ,これほどまでに,世間と私の間には距離があったのか,これほどまでに通じないものなのか,と。

そして,秋も忍び寄るある日,ひとりの友達がこう言いました。あなたの書いた文章は対象がない,と。誰に読ませるつもりで書いているのかわからない,と。厳しい批判でした。ええ分かっています。私は自分の個人的な興味を,個人的な言葉で極個人的に綴って見せただけで,実際に読んでくれる人のことも,当の田嶋陽子さん自身のことも,ある意味ないがしろにして書き進めていたということを。

だが私は表面上,謝罪はすれ,心の底からごめんなさい,と思ってはいません。ええ,もう言っちゃいます。私は私なりに,私のしたいことをしたのであり,それはそれなりに完結したのであり,それが実際にうけるかどうかはまた別だったであり,ましてや,田嶋さんのコンサートに人を集めようなどという純情は僕のなかにはかげろうのような存在感しか残していなかったのですから。

でも最後に書きましょう。

田嶋陽子さんの魅力は,ぼくが表現したくてもたぶんできそこなった魅力とは,対極のものの共存です。暗さと明るさ,論理と論理のなさ,繊細さと芯のず太さ,そういうものが混ざり合う事無く,不思議な共存をとげていることです。

端的な例をひとつあげるならば,私の好きなダークなサイドに寄せるならば,彼女はトラウマ的なことを本に書いています。親子関係の確執,そういうものが自分を歪ませ,ある生き方を強いたと。そこから抜け出すことが大人になってからの生きるということであったと,そのような趣旨のことを書いています。

それは通常,「暗い」分野に属する事柄です。そのような発想,そのように人生を解釈する人は,えてして暗い。その「トラウマ」にとらわれ,トラウマのせいにし,トラウマに寄り添って生きていくことになるのです。私の人生はこうなのは,過去にこれこれだったから,ということです。そう言い続けながら暗い人生を歩んでいくのです。

ですがこの田嶋陽子は,明るい。実際に会った事はないけど,どう見ても底抜けに明るい。ガッツがあり前向き,実行力もある。どうやら人からも好かれている。周囲からの信頼も厚い。これは一体どういうことだ? 

通常,この2つの特性は,折り合わない。共存しえないものなのです。それが一人の人間の中に2つともある。それもかなり強力な形である。そのことに僕は強く引きつけられ,田嶋を堀りに出かけたのです。

はたしてその結果は。なんだかよくわかないうちに旅が終わってしまいました。いまだに謎はとけません。ただ,やっぱり,田嶋サンは明るくていいね,と思うばかりなのです。それはほんとあやかりたいのです。はっきり言って,今はもうそれほど興味があるかと言えば嘘になりますが,ああいう歳の取り方っていいよね,という思いは今も変わらずなのです。

(伊藤鷹の目)

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