2011-09-11

Q16 宗教について,どう感じていますか?





Q16 鷹の目鷹さん,宗教について,どう感じていますか?

インド旅行中,ブッダガヤからベナレスへ向かう,おんぼろバスのとなりの席には,今にも命を落としそうな老婆でした。言葉は通じませんでしたが、ガンジスで死を迎えようとしているのは明白でした。

車中、何度も嘔吐や吐血を続け,ボクのバックパックは見るも無残な状態でした。普段なら発狂して,タココラァーと激高するのですが,そのときは,
彼女の身を案じる想いから,何か動作に移したいという一心でした。

しかし,彼女のガンジスへ向かおうとする覚悟を目の当たりにすると,軽はずみに彼女の世界へ立ち入ることは恐れ多いものだと感じ,付き添いの方に対し,気にしていないという表情をするのが精一杯でした。ボクは彼女の最後の生き様に,宗教と生きる一人の人間を垣間見たのです。

宗教の馴染みがないボクからすると,宗教に対し少しオーバーに考えているような気がしています。親が巨人ファンだから巨人ファンだ,というようなもっと気軽な感じがしないでもありません。しかし、どう捉えていいのかよくわかりません。ご参考までに,takaさんが宗教に対し,どう考えているのかお聞かせください。ボクは,日本人が日本のある宗教を批判するようなくだらないことには興味がありません。

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A16 以下は,鷹の目鷹の目伊藤鷹の目の答えである。


あなたが見たものが「信仰」です。

信仰は、凄まじいものです。
生まれた時からごく自然に信仰の中で成長し、生活し、信仰のうちに一生の幕を閉じようとしている、その現場に立ち会ったのです。
そのような信仰を前にして、一言だって口をきけるものではないのです。

あなたは信仰のすさまじさに打ちのめされたのです。

だけど、ぼくには信仰を語る資格はないのです。
信仰は、言葉を超えたもののひとつなのです。

なので、すこい違った話などしながら、はじめてみたいと思います。

思い出すのは、2年ほどまえにオランダに行った時のことです。
ユトレヒトという街のホステルで28歳のドイツ人の青年と仲良くなりました。
今年から留学するということでした。

夜、いろいろな話をしながら、ふと、君は「キリスト教についてどう思う?」と聞いてみました。

彼は、首を振って、自分は無神論者だ、と言いました。
この科学の時代に、神を信じていることは難しい、というようなことを言っていました。習慣として教会にいったりするが、自分は無神論者、無宗教だ、と。

そして、自分の周りの同年代には無神論者が多い、と言っていました。

なるほどー。わかるよね。
逆に、神は実在する、と真顔で言われたら、ちょっと自分とリアリティーに距離がありすぎて、友達になれないかな~って思っちゃう。

でもね、おれはそのときこうも思った。
「じゃあ、なんで生きてられるんだ?」と。

なんか、胸の奥からそういう声が聞こえてくるのです。
ぼくはなぜかこう思うのです。
人は、やっぱり、底の底の最後のところでは、何かを信じているものじゃないか、と。
いくら無宗教、無神論といったって、何かを信じているから正気でいられるんだと思うわけです。

それは科学でしょうか。たぶんちがうでしょう。もちろん今までわかってる範囲の科学ということですが、身内が亡くなったときに、ここにあるのはただの物質だから、と無碍に扱えるものでしょうか。今頃あの世から見ているのかなあ、と空を見上げずにいられるものでしょうか。

仏教じゃなくても、キリスト教じゃなくても、何教じゃなくても、生きている限り何かを信じている。ぼくはそう思わずにはいられないのです。

ワンネス、宇宙意識、多いなる自然、そういったことばにリアリティを感じる人もいるでしょう。
ですが、結局のところ、あなたが何を本当に信じているかは、死の間際にならないとわからないのではないでしょうか。
最後の最後のギリギリのところで、何にすがるか。何に守られたいか。家族に何を言い残したいか。


もうそのあたりにくると、ぼくは未体験ゾーンすぎて、語ることばを持たないのです。


たとえば、自分は何者かに生かされていると感じることはあるし、この世に生を受けたということは、なにか役割があって生まれたんだろう、という宿命論的なことを割と信じているつもりです。

ですが、すごく生きる意欲が減退してるときなど、自分は本当はそんなこと何も信じていないのではないか、とぞっとすることもあるのです。
周りを見渡してみれば、何の落ち度もないのにあっさりと亡くなってしまったり、不運に見舞われたり、という人がいくらでも見つかるわけですから。


神なんていないし、運命なんてないし、生きる目的も使命もないし、たまたま生まれて、たまたま死んでいく、ただそれだけのことだ、と思うことがありますし、また、結構リアリティーを感じていたりします。

命短し恋せよ乙女


もう一度おさらいしてみましょう。
キリスト教やイスラム教、ヒンズー教、その他のように、ある意味わかりやすい、つまり自分の生きてきた環境において自然な「信仰」を持つことができなかった私は、それに代わる何かを持っているのか、という問いかけなのです。

持っているんじゃないか、と思うのです。
はっきりとつかめないが、何かを信じている、という気がするのです。
でもそれは、表の意識、日常で思考し言語をしゃべる意識まで貫いて信じている、というほど突貫力のあるものではなく、心の底の底のほうにもやもやと漂ってる、でもそれが支えにもなっている、そのような「信仰」があるような気がしるのです。

もはや自然といってもいいものかもしれません。
だが、人間である以上、歴史、文化の制約を逃れようもないわけですから、
歴史、文化の中で、それがどんなに動揺していようと、何らかの「信仰」の種を植え付けられている、と考えたほうが自然だと思うのです。
人類は、それなしでは生きられない、そのように進化を歩んできたと思うのです。

不思議な時代にさしかかりました。
いまや、私たちは、信仰を発見しなければならないのです。
自らのうちから信仰を発掘するのです。

すでに何かを信じている。だが、何を信じているのかわからない。
それを、一生をかけてゆっくりと発掘、発見していくことになるのです。

ぼくの宗教観とは、そういうものです。

因果な時代に生まれたものです。
悲しみながら恋をしましょう。

宗教とは元来、信じるものではなく、歌いあげるものなのですから。



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伊藤鷹の目Q&Aとは…
アルヨプロジェクトの頭脳、伊藤鷹があることないこと全ての質問にとりあえず答える。答えを信じて行動したとしても,伊藤鷹には一切責任がないものとすーるー。

6 件のコメント:

  1. でびもね、以前 死に掛けたときジャマイカ人に
    「(死に近づいた状態で)あなたは何を信じるの?」と
    聞かれたんだ。

    そのときは「何も信じていない」ってゆっちゃったんだけど。その後よくよく考えて、キリスト教のように信仰の対象を持たない仏教徒である私は、結局自分を信じてるんだなと思ったよ。

    でも何かに縋りたい弱さもある。

    だからキリストを信じる人たちの強さに惹かれてしまうこともある。

    悲しみながら恋をする。なぜ、最後に恋がやってきたんでしょう?笑

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  2. 信仰を持つ人の「強さ」はたまにうらやましく思いますよね。

    なぜ最後に恋が来たか。

    人が生きる目的は恋をすることに他ならないと鷹の目は考えているからです。

    もちろんここで言う恋とは、いわゆる男女の恋愛に限らないことはいうまでもありません。

    ぼくたちはあらゆるものに恋をするのです。
    そして恋すれば出会い、出会えば恋するのです。

    それこそが人生の旨みの部分なのです。

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  3. 年下の女の子に「女子力を磨け」と言われました。“女子力”ってなんですか?

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  4. これ,質問だねっ?質問ですねっ?!
    鷹に届けます〜

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  5. 「女子力」については質問としてとりあげ、改めて回答しますね。 鷹

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  6. 私は愛だと思います。

    恋は入り口にすぎないのでは。。。と。

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